三位殿に申し上げることがあって忠度が帰ってまいりました。
地の文なので作者からの敬意。
動作の主体である薩摩守忠度を敬っている。
ぬる=完了の助動詞「ぬ」の連体形、接続は連用形 三位俊成卿はこれを開けて見て、「このような忘れ形見をいただきました以上は、 ゆめゆめ 疎略を 存ず まじう 候ふ。
「忠度」と名のり給へば、 「落人(おちうど)帰り来たり」とて、その内騒ぎ合へり。
さてもただ今の御渡りこそ、情けもすぐれて深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙おさへ難う候へ。
「る・らる」には「受身・尊敬・自発・可能」の4つの意味がある。
その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、 その、家の主人と住居とが、競うようにはかなく滅び去るさまは、 いはば朝顔の露に異ならず。
現代語において二重敬語は誤った言葉づかい。
薩摩守忠度からの敬意。
お疑いなさいませんように。
明日のわが身がどうなるかも分からないという戦乱の世において、鎌倉仏教と結びつき、「無常」という考えができあがったのです。
賜る(たまはる)=ラ行四段動詞、「受く・もらふ」の謙譲語、いただく、頂戴する。
たとえていうなら朝顔の(花とその上に置く)露(との関係)と違わない。
「あはれ」はもともと感動したときに口に出す感動詞であり、心が動かされるという意味を持つ。
作者からの敬意。
無常観とは、「全てのものは絶えず変化していくものである」「この世のすべては幻で、仮の姿に過ぎない」といった考えで、それが「人間は死から逃れることはできない」ということにつながります。
さざ波や 志賀(しが)の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな その身朝敵となりにしうへは、子細に及ばずといひながら、恨めしかりしことどもなり。
あるときは花がしぼんで露がまだ消えないでいる。
ず=打消の助動詞「ず」の終止形、接続は未然形 「(もはや)今となっては、西海の波の底に沈むならば沈んでもよい、山野にかばねをさらすならばさらしてもよい。
「ゆめ」だけの時もある。