鎌足と中大兄皇子が密談したとされる「談所ヶ森」. 「西郷隆盛」、「大久保利通」、「坂本龍馬」、「桂小五郎」らと並び、明治維新の十傑のひとりでありながら、表には出てこない陰の存在、「小松帯刀」(こまつたてわき)。
後を託そうと、天智天皇は病床に「大海人皇子」を呼びます。
おそらく孝徳天皇は、中大兄皇子と中臣鎌足にとって、傀儡(操り人形)として都合の良い存在だったのでしょう。
そして「薩摩の小松、小松の薩摩」と言われるほど活躍し、幕末から明治維新にかけて薩摩藩の躍進を支えました。
中大兄皇子との関係 中大兄皇子は舒明天皇(じょめいてんのう)と皇極天皇(こうぎょくてんのう)の間に生まれた舒明天皇の次男にして天皇家のサラブレッドです。
これは中臣鎌子が従者である以上は当然の事です。
もし「天智天皇」が弟「天武天皇(大海人皇子)」に暗殺されたならば・・・・・天智天皇の弟「大海人皇子」と天智の息子「大友皇子」が争った「壬申の乱」は、父を「大海人皇子」に殺害された「大友皇子」による仇討ちの戦いだったかもしれませんね。
これに対して、「蘇我安麻呂」から警告を受けた「大海人皇子」は、兄である天智天皇からの「皇位を譲る」という申し出を辞退。
中臣鎌子連(ナカトミノカマコノムラジ)は人となりは忠誠心があり、正しくて、間違いを正し、人を救う心があります。
奈良の大仏を建立した聖武天皇や、大宝律令を制定した文武天皇は大海人皇子の血筋を引いている事になるのですね。
直接の血縁関係はなくても、鎌足は一族の長である「中臣勝海」を殺された恨みを、蘇我本家に対して強く抱いていたことでしょう。
この女性天皇擁立の背景には、蘇我氏の押す舒明天皇の第1皇子「古人大兄皇子」(ふるひとのおおえのみこ)と聖徳太子の子「山背大兄王」(やましろのおおえのおう)との間に皇位を巡る対立があったからと言われています。
この改革は日本の歴史上でかなり重要な意味を持つもので、その後の国政の基盤が形作られました。
ただ、金庾信は金春秋の娘を妻に迎えています。
蘇我入鹿は古人大兄皇子を天皇にするために最大のライバルと見られていた 聖徳太子の息子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)を謀殺し、政治を私物化していきます。
みなさん それぞれが想像する古代の人物像には興味がありますが、 単なる善人・悪人として区別してしまうのはもったいない気がします。
中臣鎌足が少年期を過ごした時代の日本は、どのような状況にあったのでしょうか。
中臣鎌足の墓として考えられている場所の有力候補が、の「阿武山古墳」(あぶやまこふん)。
飛鳥板蓋宮大極殿で入鹿が殺されたとき、実行犯の中に「韓人=渡来人、あるいは渡来系家族」は存在しない。
その出会いというものもかなりドラマチックなところがあり、飛鳥寺で蹴鞠大会が行われている最中、中大兄皇子は靴が脱げてしまったそうで、中臣鎌足はその靴を拾って中大兄皇子に渡したんだとか。
第4条「租調庸の税制」 (そちょうようのぜいせい) 公民に税を負担させる統一的税制を行ないました。