また、当のブロディ、ハンセンはシングルプレイヤーとしても突出している自分たちと、タッグチームとしてのみ存在価値を持っているロード・ウォリアーズでは比較にならないとコメントすることが多かった [ ]。
ジャンボ鶴田は無名時代ともにトレーニングを積み、トミーの愛称で呼ぶほどの親友で、夫人が日本から送ったを2人で分けて食べたという。
ブッチャーはブロディ同様のチェーンを持って登場し、ハンセンはミラクルパワーコンビのテーマで入場した。
プロモーターはだが、推薦人物は先にサンマルチノにコンタクトをとるようにハンセンに忠告した。
これらに拍車がかかりプエルトリコの惨劇が起こったとハンセンは断定しており、傍に居ながら止めてやれなかったことを嘆いている。
また、ブロディと組んだ「 」は圧倒的な強さを誇った。
」と非難を一身に浴びることとなった。
アメリカでの活躍 [ ] 全盛期にあって本名でリングに上がり続けたが、アメリカでの正式なリングネームは「 "Bad Boy" Stan Hansen」または「 Stan "The Lariat" Hansen」 である。
第2代会長。
ライバルであるは、ミラクルパワーコンビとのどちらが強かったかというファンからの質問に対して、ミラクルパワーコンビの方が強かったと答えている。
関連項目 [ ]• 当時、同地区はエース・レスラーのがチーフ・ブッカーを兼任しており、ワットの右腕だったが彼らのを務めていた。
:1回• フィニッシュとしてラリアットを繰り出す直前にサポーターをホイップするのは大きな見せ場であり、リング中央でハンセンがサポーターをホイップすると観客から歓声が上がった。
全日本の看板タッグ王座であるには再結成直後の4月に挑戦し、馬場・鶴田の王者コンビは完全に圧倒され、防戦一方でかろうじて両者リングアウト防衛、これ以降二度とミラクルパワーコンビが同王座に挑戦することはなかった。
意識を取り戻したハンセンは猛然と天龍に襲い掛かり、椅子で滅多打ちにし、カウベルで殴打し、強烈な張り手をくらわすなど、すさまじい暴れっぷりを見せた。
ハンセンはその忠告を守り、先にサンマルチノと会談した。
現在でもの応援曲やなどで乱闘時のなど多くの番組で、プロレスや格闘技をイメージさせる曲として使用される。
当時のアメリカではを主戦場に活躍する一方、1981年には再びのに参戦。
X秒差の逆ラリアート」などのドラマを生み、それまでのメイン・イベンターであったを抜いて新日本プロレスのトップ外国人レスラーとなった。
対戦時の実況ではハンセン曰く「ホーガン、確かにお前はアメリカでは一番かもしれないが俺はお前が捨てた日本で今まで頑張って来たんだ!」と語られていたが、ホーガンが日本に居れなくなったのは日本プロレス界の政治的なものでハンセンもそれの経緯を知っている。
ハンセンは逮捕されてしまったが新間寿の贔屓し筋である福田赳夫の取り成しによって事態は収まった。
は紛れもなくスターであり、旗揚げ参戦の意義は大きく、弟子のジャンボ鶴田のトレーナーとして海外デビューさせてくれた恩義を思えば、鶴田の渡米修行時代に亡くなったシニアの気持ちも馬場は理解出来、ファンクスの優遇は当然と言える。