「代替わりしての意気込み」 2021シーズンは、最大の目標としてオンザピッチでは「インカレ優勝」、オフザピッチでは「女子サッカーの価値向上」を掲げました。
漫画研究会の子もいたんですよ(笑)。
実際のところ試合の集客数が十分ではなく、採算がとれていない状況ですので。
自身は筑波大やつくばFCでコーチ業を続ける傍ら、92年にJリーグが始まって以降は、スポーツメーカーやJリーグクラブの通訳をはじめ、交渉ごとも数多くこなした。
茨城初の女子サッカークラブ発足は、近隣の大学にも女子サッカー部を作る動きを促し、高校年代にも波及した。
今に活きている筑波大での経験とは? 筑波大に行ってサッカー好きな友達と出会っていなかったら、ここまでサッカーには携わっていなかったと思うので、大学時代の人との出会いは私に大きな影響を与えていますし、筑波大でやっていた、JリーグJFA寄付講座のS級コーチ養成のお手伝いをして、そこで、トップコーチ達との出会いから得たものは大きかったと思います。
つくばFC設立に至った経緯とは? アメリカから帰って来た後、筑波には私がサッカーを続けられる環境がなく、東京のチームに顔を出していましたが筑波から通うのが大変だったことと、少年団でサッカーをしていた少女達が、中学に行くとサッカーをする場がなくなると聞いて、「じゃあ、クラブチームを筑波に作りましょう」と。
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あの時、ようやく女子サッカーの存在に気付いてもらえたとは思います。
あれだけ盛り上がっても、まだ集客数に課題が残るのですね。
だが、筑波大には女子サッカー部がなかった。
その柔軟なコミュニケーションスキルや、自分が好きなことや大事だと思うことは妥協せず、行動に移す姿勢が仕事の幅を広げていく。
女子がサッカーをやることが珍しくない環境を 2年間の留学を終え、筑波に帰郷。
先生になるなら、語学だけでなく心理学を学ぶこともためになるかもしれないとの理由で、人間学類に進むことにしました。
その時に経験したアメリカの女子サッカー文化に衝撃を受けている。
元々は好きで行っていたのですが、日本女子代表で一時的に主務(練習、食事、移動、などの準備や現場の活動をサポートする)を務めました。
国際大会を取材中、筆者も現地で小林さんを何度か見かけたことがある。
女子W杯は91年の第一回大会から、男子は98年大会から毎回現地に行っています。
スマートに着こなしたスーツ姿で、各国代表チームが通るエリアでVIPと話をしていたこともあれば、華やかな応援グッズをまとって他国のサポーターとスタンドで盛り上がっている姿も見かけた。
認知度が高まり、市民権を得て、会社で働きながらプレーをしている選手たちがもっとサッカーの練習に費やせる時間が増えてきたことは確かです。
元日本代表でJリーグ特任理事の播戸竜二氏や、フットボール先進国・スペインの男女トップリーグで強化、育成、普及に携わった佐伯夕利子氏、元女子日本代表で帝京平成大学女子サッカー部監督を務める矢野喬子氏をはじめ、広告代理店の役員やクラブの代表、弁護士など、その顔ぶれは多岐にわたる。