文政6年の大旱魃で雨乞祈願をした際、神社と奥の院の中間ほどで神主が桜の枝を織って御座所を掃き、その枝を地面に刺したものが大樹になったとされています。
まず多伎神社前の車道を山の方へ進む。
由緒 多伎神社由緒 旧社格 式内大社 県社 御祭神 多伎都比売命 多伎都比古命 須佐之男命 当神社は文献に「瀧之神」とあり、往古奥の院の磐座の信仰に始まり、崇神天皇の御代饒速日命六代の孫伊香武雄命「瀧の宮」の社号を奉り初代の斎宮になられたと記されています。
(三代実録) 醍醐天皇の延喜年間(九〇五年)式内大社(伊予国に七社)に 列格の光栄に預り、皇室より久しく特別の待遇 に浴し国司、主護職、領主をはじめ庶民の信仰 を集めました。
78㎡(公簿) 造成年月日 - 私道負担面積 無し 接道状況 北西4. その後大宝2年(702)に多伎神社に改称。
社頭にも駐車スペースあり。
多伎都比古命は、『出雲国風土記』記載のの御子で、 祖母が、宗像三女神の。
近世に入り、今治藩の雨乞祈願所となり、 大規模な雨乞祈願が、江戸末期まで行われたという。
3の時点で山歩きに慣れていないと辛い道(高低差はないが足場不安定な箇所多数)で、案内板もないので道を知らないと迷う可能性もあります。
(33度59分37. 広大な境内地の愛媛県指定史蹟三十数基の 群集古墳からは古い歴史と由緒が伺われ、多伎川の 清流と照葉樹を中心とした自然林は全国でも有数、 まさに神様のお座します所であります。
前半は本殿で、後半は奥の院で行われたそうです。
安芸の厳島神社が貞観9年に従四位上だったといいますから、相当なものです。
場所は当社から多伎川を1kmほど上った地点の山中。
幕末期だけでも文政6年、天保2年、嘉永5年、同6年の4回の実施が記録されています。
指定前にくずれていた古墳数基も横穴式石室であることから、現存する古墳も多くは同形式(6世紀後半-7世紀前半頃)のものと見られています。
しばらく進むと箒桜の立て看板があり、その少し先に山に入る道がある。
石室は、両袖式の横穴式石室で、全長は6. 『伊豫國神名帳』によれば多伎不断大願大菩薩とも。
創祀年月は不詳。