滋野内親王母〕。
阿刀大足と秦氏の女性との娘が空海のお母さんである。
しかし、無名の一沙門である空海は、これら唐へ渡る費用、滞在費、灌頂を受ける費用、経典や法具の購入費など、信じられないような莫大な費用をどう工面したかが大きな謎だとされます。
空海さんは、渡来人である秦氏と関係するため本来の生誕地を明かすことができなかったのでは? ・・・と推測するのですが? そして渡来人と関係するというのなら、この渡来人とは秦氏以外はない。
正四位下。
ただし山野での修行は行っていない。
時に45歳。
良峯安世母〕。
宝算70。
『後漢書』巻85辰韓伝、『三国志』魏書巻30辰韓伝、『晋書』巻97辰韓伝、『北史』巻94新羅伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。
新しい仏教を入手することに関しては上手く事が運び、さらに短期間で密教の奥儀まで伝授されることになったのです。
河上真奴 〔父:錦部春人。
これは事実です。
美作権守。
信じられないことが起きます。
その後、桓武天皇の身内が相次いで亡くなり、長岡京で疫病や水害が起こった原因が早良親王の祟りだとされた桓武天皇は鎮魂の儀式を執り行い、800年に追号という形で早良親王に崇道天皇の名を送り、早良親王が天皇に即位したということにしました。
803年(67歳)坂上田村麻呂が 志波 しわ城を築く。
2年で帰国は少し早かったかもしれませんが、当初の予定通りのように思います。
本来の話は、空海さんは皇帝の命により、宮殿の二間の壁を修理ることになり、両手両足と口に5本の筆で持って、王羲之の五行の詩を一度に同時に書いたとされます。
その成り立ちに一人の天皇が関わっていたのだということを、ぜひ頭の片隅に置いていただければ幸いです。
渡来人である天智は、もちろん王(天皇)に即位していません。