鬼平の父 長谷川宣雄(はせがわ・のぶお) の旗本で、鬼平ことの父。
当分加役は、天和2年(1681)に先手頭中山勘解由が勤めたのが始まりである。
酒改方与力 酒造関係事務をつかさどった役職。
*** 江戸の町の警察裁判を掌ったのは町奉行所ですが、火附盗賊改は、これと並行して市中を巡回し警察裁判権を行使しました。
稟米支給手形に切判し、事務検査、違反時の老 中への具申権もあった。
この御役を拝命すると、組下の与力・同心を使って、絶えず市中を巡邏して怪しい者を、どしどし検挙したから恐れられた。
戦国の余風が残るこの時代には滅亡した大名家の残党とも言うべき人々が新たな職に着く事も出来ず困窮していた。
本役の任期が一年、当分加役は半年、増役は一時的となっていたから拝命した御先手組頭の拝領屋敷が役宅ということになる。
本役、当分加役の2つの役所でも手に余る時には、第3の臨時火付盗賊改役を増設し、この役を勤める御先手組を 「増役」 と呼んだ。
そのため、長五郎の自供だけで火罪にすることをためらい、老中・松平武元に町奉行の判断を願い出た。
畳蔵門番人 畳職人を総合統括する役。
かつて、錠前外しとして鳴らした岩五郎は、盗みで捕まった際に、平蔵やその密偵・ 大滝の五郎蔵(綿引勝彦)から温情を受け、今では平蔵の密偵として働いています。
奉行は新任のとき前任者が新任者に大坂市内を案内巡見する 初入式をするのが通例で、地域にわけて 三回おこなった。
秋の夜長に楽しむのにベストな一冊である。
すぐさま武蔵熊谷無宿・長五郎を捕まえた。
しかし、夜もひとりででかけて、頻繁に襲われたが、剣の術で切り抜けていた、というのは、やはり、ドラマの世界だろう。
寛文5年(1665年)に設置されるものの、火付盗賊改方は常設ではなく、治安の乱れ具合や社会情勢に応じて設置される役所であったが、江戸幕府後期以降は常設となったようだ。
火付盗賊は、日本屈指のベテランプロフェッショナルファイアーパフォーマンスチームで、現役の国内最老舗にして最大最強のファイアーエンタメ集団です。
先手組頭の役高は1500石で「足高制」という制度が用いられていた。
北町奉行は、刑事事件の他に、書物・酒・廻船・材木問屋の案件の窓口を担当。
享保9年の大坂大火のときには両方とも難波別院にうつった。
小買物役与力 城内の諸番所や船手番所・奉行所の消耗品(薪炭から筆記用具ま で)や備品の買付事務をおこなった。
町奉行は幕政の重要事項や大名旗本の訴訟、複数の奉行の管轄にまたがる問題の裁判を行なった機関である評定所の構成メンバーです。
もう一つ挙げれば、岩手県宮古出身の小笠原善平という陸軍軍人と、徳冨蘆花、乃木大将の関わりを書くことです。