10月12日、第2軍が信陽を占領。
国民党は、の両国の関係改善の希望もあり、先ず共産党に対する囲剿戦に全力を傾け国内と統一してから日本と戦う「安内攘外」を基本方針に採用した。
ちょうど、ベトナム戦後期に米空軍が、グァム島のB52爆撃機部隊をその大搭載量を活用して、戦術爆撃に使用したのに似ている。
1937年5月31日、林内閣は総辞職し、6月に内閣が成立した。
日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。
「このごろの官僚のやるように改竄や隠蔽や書き改めなどのとかく悪質なことはいっさいしておりません」とことわっている。
しかし数多の類書よりも一歩踏み込んでいる。
戦前の日本は不況で農村は特に困窮していたと言われるが、そうとは言えないというのだ。
なお、海軍が早くからアメリカを仮想敵としていたことは加藤陽子さんの(新潮社)にも出てくる。
「そのことを十分に検討したら、長期戦なんかとてもやっていられないですよ」と当時の兵站部参謀が振り返っている。
戦争に突入していく後半では、発言のオクターブがいちだんとアップする。
木更津航空隊に最初に配備された機材は、九五式陸攻半隊 (常用四機、補用六機)、九六式陸攻一隊 (常用一二機、補用六機)であった。
真夏の太陽もようやく地平線に近づいた頃、西の洋上の雲間から、遠くかすかな爆音が聞えてきた。
中国空軍の戦闘機隊は外国製の寄せあつめだったが、陸攻隊に大損害をあたえた。
中国共産党の公式な見解は、1935年の抗日人民宣言から始まり、1937年の盧溝橋事件 からとされていたが、1月は中国の教科書で使われている「日本の侵略に対する中国人民の8年間の抗戦」という表現を、日中戦争の始まりをの「柳条湖事件」まで6年遡らせて「14年間の抗戦」に改めると発表した。
しかし、サロット・サルの兄弟のうちポル・ポト政権下を生き延びた3人の1人ロット・スオン(Roth Suong)は[4]、ポル・ポトがサロット・サルであることを証言している[5]。
- 日本軍、香港占領。
開戦に向けて、「勝利」や「長期戦で停戦」のプランはあったが、「敗戦」のシミュレーションがなかった、「鉄生産」の数字に象徴されるような改竄、隠蔽。
和平交渉決裂・南京占領 [ ] 上海攻略後、日本はを開始し、1937年11月2日にディルクセン駐日ドイツ大使に内蒙古自治政府の樹立、華北に非武装中立地帯 があった場所 、上海に非武装中立地帯を設置し、国際警察による共同管理、共同防共などを提示し、「直ちに和平が成立する場合は華北の全行政権は南京政府に委ねる」が記載されている和平条件は11月5日に駐華ドイツ大使に示され、「戦争が継続すれば条件は加重される」と警告したにも関わらず蔣介石はこれを受理しなかった。
また、いったん戦争の機運が盛り上がると、「主戦論」が「慎重論」を圧しがちだということにも注意しておきたいと思った。
12月〜翌年1月 -。