朝廷は、島津久光、徳川慶喜、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂ら開明派諸侯にを命じ、これを受けた諸侯は年末にかけて相次ぎ入京。
また慶喜はアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・イタリア・プロイセンの欧米の列強諸国を味方につけることに成功します。
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この記事の目次• 徳川慶喜ら幕府側は討幕の密勅が薩長に出されたことを知ると、土佐藩の 後藤象二郎 ごとうしょうじろう と 坂本龍馬 さかもとりょうま が前藩主 山内容堂 やまうちようどう を通して徳川慶喜に大政 奉還を建白します。
それは、武家政治の明確な否定、鎌倉幕府以前の君主政体への引き戻しといった、幕府側にとって衝撃的な内容であった。
諸侯会議の召集 [ ] 朝廷は 諸侯会議を召集して合議により新体制を定めることとし、徳川慶勝(尾張藩)、松平春嶽(越前藩)、島津久光(薩摩藩)、山内容堂(土佐藩)、伊達宗城(宇和島藩)、()、()、(慶喜の実弟、)ら諸藩に上洛を命じた。
議定には皇族や公家、有力諸侯などが任命され、参与には雄藩の藩士が任命されている 先に述べた通り、徳川慶喜は三職のいずれにも任命されていません。
日本史上の最長不倒政権たる江戸幕府を自死させた男・・・慶喜という男の,劇的な前半生はどんなものであったろう。
ただ単に誰かが書き上げたものを発表したのではなく、「天皇が神に誓う」という形で示したことで、とても強い影響力を持たせようとした、とも言えるかもしれません。
西郷と大久保は焦りました。
それがわかっていた「山内容堂」や「松平春嶽」は、「慶喜の政治参加」を強く主張。
一 勅問御人數國事御用掛總テ被廢候事。
徳川家康がつくった「江戸幕府」は265年で終わったのでした。
5年()、井伊直弼がに就任、には徳川慶福が将軍継嗣と定まり、南紀派が勝利する。
幕府の権限ははく奪され、すべて新政府にゆだねるというものです。
西郷は「ただ、ひと匕首(あいくち=短刀)あるのみ」と述べ、岩倉を勇気付ける。
討幕の密勅の大義名分を失った薩長が不利な状況を打開するために王政復古の大号令と小御所会議でのクーデターを決行したことについて 取り上げました。
いずれにしても正当性の源泉を天皇に認める点は共通しており、その権威は広く認識されるようになっていた。
これによって叡慮を決せられ、王政復古、国威挽回の御基立てさせられ候間、自今摂関幕府等廃絶、即今、先ず仮に、総裁議定参与の三職を置かれ、万機行はせらるべし。
その実現のためには譜代と幕臣に国政が独占されている従来の体制を変革し、より広く人材、意見を取り入れる仕組み( )を求める声が、諸藩、在野の開明派論者や一橋派諸侯のみならず幕府内からも上がっていた。
そのため、事態は王政復古の大号令だけでは決着がつかず、その後薩長と親徳川勢力の間で武力衝突が生じることとなります。
数百冊の書物に加えて、• 越前藩・尾張藩ら公議政体派は徳川家をあくまで諸侯の列に下すことを目標として政変に参加しており、実際に親藩である両藩の周旋により年末には慶喜の就任が取り沙汰されるに至っている。
以後数年の間、この体制が京都政局を主導していくこととなる。
一方で、実行力に乏しく翻意することがたびたびあり、ようやく実現した公武合体の連立政権(参与会議)解体の原因ともなった。