一国一城の主として生き残り、一族を存続させるには、 「人から何と言われようとも、力のある者の側に付くのだ」と決めてたのではないでしょうか。
晩年、藤孝は京都の吉田で悠々自適な生活を送り、慶長15年(1610年)8月20日、 77歳で亡くなった。
戦国時代により著名なのは明智光秀ですが、実を取ったのはむしろ細川藤孝。
その後、約5年という長い年月を持って光秀は丹波平定に成功する。
天正6年(1578年)信長の仲介によって嫡男・ 忠興と光秀の娘・ 珠(後の)が結婚している。
細川藤孝は「古今伝授」の伝承者。
筒井順慶は当初は消極的ながら光秀へ協力する姿勢を見せていたことから、藤孝がもし光秀に協力する決断をしていれば、歴史の流れは大きく変わっていたかもしれない。
この説が正しいとすれば、「細川藤孝」は、征夷大将軍「足利義輝」「義昭」兄弟の兄ということになります。
ちなみに足利義輝の妻「里子」は、関白「近衛前久」の妹なので、「近衛前久」と「足利義輝」は義兄弟。
それでは、上の命式表を見ながら鑑定していく。
1578年には信長の薦めもあって、忠興と明智光秀の娘である玉(後のガラシャ)の結婚が決まりました。
剣術は「剣聖」とうたわれる塚原卜伝、弓術は日置流雪荷派の吉田雪荷など一流の人々から教えを受けています。
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明治に入ってからは、日本美術刀剣保存協会初代会長・細川護立が有名だ。
光秀は藤孝を引き連れて美濃に向かいます。
1578年、織田信長の仲介により、嫡男・細川忠興と、明智光秀の娘・玉 15歳が結婚。
生地は、京都の東山。
(「麒麟がくる」では眞島秀和さんが演じています) 目次• 毛利勢との対陣で播磨へ出征した際は、加古川の刀田山鶴山寺(とたさんかくりんじ)にて「高砂の 松の思はむ 心にも 猶恥やらぬ 言の葉にして」を、明石では「あかし潟 かたふく月も 行舟も あかぬ別れに 嶋かくれつつ」等を詠んでいる。