その抜群の記憶力は後に英語、ドイツ語、フランス語など19もの言語を操る力となったのかもしれません。
6月24日 - 長男熊弥誕生。
メモの中には大正一五(一九二六、六〇歳)年発行の『南方閑話』の書名が見え、さらには昭和一一(一九三六、七〇歳)年刊行の『琉球神道記』からの引用があるという。
孫文と熊楠兄弟との記念撮影。
家族 [ ]• 7月、ピトフォラ・オエドゴニアを採集する。
12月8日のの報道を知っていたかどうか、当日には何の記載もない。
ぬるめの湯船に目をつむって長時間過ごすのが常だった。
生誕:1867年5月18日• 熊楠が発見した新種は10種ほどがあり、中でもミナカタホコリには熊楠の名が残されたことでよく知られる。
1888年 21歳 ミシガン州立農学校を退学後、アナーバー市に移り、読書や植物採集に励む。
著作 [ ] 生前刊行本 [ ]• ()「怨霊記」シリーズ、徳間書店 南方熊楠が脇役として登場• 1887年(明治20年)1月8日 - 着。
1902年(明治35年) - 熊野にて植物採集、採集中に小畔四郎と知り合う。
4月羽山繁太郎の誘いを受けに旅行する。
岡本清造 『岳父・南方熊楠』 飯倉照平・編、平凡社、1995年• 奇品は数が少なきゆえ、一度変化すると恢復の見込みなく、残念千万なり。
帰国後の研究 1900年10月熊楠は14年ぶりに日本へ帰国し和歌山の円珠院に住みました。
南方マンダラとは、熊楠がイギリスから帰国後、那智の原生林への没入を経て、当時親交の深かった真言宗の僧侶・土宜法龍に当てた書簡に記された2枚のスケッチのことを指す。
『十二支考』(全3巻) 飯倉照平校訂、 1972〜73年、ワイド版2006年• 建築家。
南方マンダラ [ ] 1903年7月18日にとの書簡の中で記された。
後に交信を絶ったが、熊楠死後いちはやくその功績を認め、全集の計画をしたのは柳田国男だった。
甘いものが大好きであり、特にが好物で、好きな人にもよくあげたという。
ただし人すでに心あり。
実際に話したり書いたりしていたと認められるのは英語のみなのですが、たとえばフランス語やドイツ語、ラテン語などは専門書を読み込めるほどの力があったようです。