いまこそ信長が統治者として君臨すべきだという考えだ。
破格の褒美といっていいだろう。
いえ、その前に引退することを勧めたと思います。
織田信長や彼の家臣・・・戦国大名を英傑として称賛するものでもない。
「辞めます」と、飛脚をよこしてきたのですから裏切られた気分になるわけです。
有名な明智光秀ですが、実は年齢不詳。
念のためですが、光秀の母親が多情な女性だったため判別できないという訳ではありません。
信長はできる人材にますます仕事を与えるタイプで、光秀を心身ともに追い込んだのかもしれません。
不利を悟った光秀は、やむを得ず退却。
本圀寺は、織田信長の後押しで昨年上洛し、室町幕府15代将軍の座についた足利義昭(あしかがよしあき)が、幕府の奉公衆(ほうこうしゅう、将軍の近臣)や織田家の人数らとともに仮の御所としていた。
(読売新聞事業局美術展ナビ編集班). 中間は荷物運びなどをする雑役従事者です。
歴史学者をやっていると、こんなふうに、声をかけられます。
この時、明智十兵衛光秀は本圀寺内にいた。
「本書においては多くの戦乱を描いた。
「毛利氏」から見る 大河ドラマで「麒麟がくる」を放送していることもあって、このところ類書が目に付く。
姉川(あねがわ)の合戦である。
そして丹波平定は、反信長勢力を一掃するほどの影響を与える。
これらが本能寺の変の2年前のことであった。
ゲットしたもので人を偉いと評価するのでは世の中は良くならない。
波乱に満ちたガラシャの関係資料やその時代の色鮮やかな洋風画も展示されている。
光秀を通じて京都の情勢、将軍の動向が逐一つかめるだけでなく、信長の意向を将軍に確実に伝えることができるからだ。
加来氏に聞いた。
ですから、私は、歴史という名の「靴」づくりに励みたいと、思っています。
(気に入られなかったので)」とある。