以後、ドイツ王・イタリア王(後にブルゴーニュ王も含む)を兼ねる者が代々、ローマに行って神聖ローマ帝国皇帝の冠を教皇から受けるのが伝統となる。
都市建設王。
東方から侵入したマジャール人の討伐に成功した東フランク王のオットー1世に対し、 962年、教皇ヨハネス12世は皇帝の称号を与えます。
帝位はオットー2世が継承したが、にが崩御して直系が断絶、弟ハインリヒの孫のが子の無いままに崩御、ザクセン朝は断絶した。
アグネス(1172年頃 - 1200年頃) ハインリヒ・フォン・プライン(1190年頃没)と結婚• 以上、ローマ教会の成長編でした。
でもこれって「政教分離の原則」の真逆で宗教と政治のコラボ企画みたいなってますよね。
それがゲルマン系のフランク人のサリー部族、クローヴィス一世(466年~511年、在位:481年~511年)が打ち建てたフランク王国である。
ヴェルダン条約が兄弟間で締結。
シュヴァーベン公ヘルマンの協力を得て、これを何とか鎮圧したオットーは、イタリアを制圧。
此処に東フランクにおいてもカロリング朝は途絶えた。
次いで、オットー四世(1175年?~1218年)のヴェルフェン朝がスポットとして存在し、次いでフリードリヒ二世(1194年~1250年)、コンラート四世(1228年~1254年)のホーエンシュタウフェン朝が一時的に復活する。
また15C半ば以降は"ドイツ国民の神聖ローマ帝国"と呼ばれました。
神聖ローマ帝国の誕生であり、オットーはその皇帝位をビザンティン帝国にも承認させるため、長期間の外交交渉を続け、972年ビザンティン皇女テオファーノを息子オットー2世の妃に迎えることで目的を達した。
それだけ興味深い人物であるし、その人物像を知ることによって世界史にけるローマ教皇の本質も見えてくると思われるので触れておく。
後継者達に後を任せ、オットー1世は、最も気に入っていたといわれるのメムレーベン宮殿で61年の生涯を閉じた。
9世紀にはシチリア島を占領し,10世紀にはカリフを称したファーティマ朝が南岸を制圧し,同じくカリフを称したイベリア半島の後ウマイヤ朝とともに西欧世界を圧迫した。
その後、嘗てのザクセン朝の血縁ではないが、ザクセン公のロタール三世(1075年~1137年)のザクセン朝がスポットとして存在し、次いでコンラート三世(1093年~1152年)、バルバロッサ(赤髭王)ことフリードリヒ一世(1122年~1190年)、ハインリヒ六世(1165年~1197年)、フィリップ(1176年?~1208年)のホーエンシュタウフェン朝となる。
そして、皇帝も教皇も聖職叙任権についてまったく譲らなかったことから、しばしば争いの種となりました。
大事なのは、次のザクセン朝で、大諸侯の1つであるザクセン公がつくった王朝です。
こうして、本来の直轄領であったザクセンに加え、フランケン、シュヴァーベン、ロートリンゲン、バイエルンの全ての大公領はオットー1世とその近親者の掌中に収められた。
西フランク王国と交渉してロートリンゲン(中部フランク。