手に結ぶ 水に宿れる 月影の あるかなきかの 世にこそありけれ 現代語訳は「水に映っている月の影を掬う(すくう)ように、この世はあるかなきかといった、本当に儚い世の中であった」となります。
905年には友則らとともに《》を撰進した。
(本文中の『土佐日記』からの引用は、長谷川政春校注の新日本古典文学大系版から。
楫取の心は、神の御心なりけり。
天慶8年() 3月28日:• なんだか不思議な響きだとは思いませんでしたか。
貫之は本当に女のフリをしたのか、濁音が表記されていない為にそのように読めるのかは不明です。
3人は勅命に従い、『 古今和歌集』を選出した。
これにもいくつか説はありますが、 仮名文を使って自由な表現を行うためという説(中国文化(漢字)からの脱却を志向したなどの説も)もあります。
最初は紀貫之の従兄である紀友則が中心となって選んでいたのですが、友則が病死してしまい、紀貫之が代わって中心となりました。
御書所預 おんふみのところのあずかりとなる。
そのとき、船の楫取は「(みんながとりわけ崇め奉る)この住吉の明神だってふつうの神様だ。
一般的には、下記のように説明されると思います。
勤務が終わり、京への帰り道を日記にしたのが、日本最初の日記文学と言われている『』である。
紀貫之が生きた時代、平安京は藤原氏の敷く摂関政治が横行していました。
そして醍醐天皇の命により作られることになった、日本初の勅撰和歌集 『古今和歌集』の 撰者の一人にも選ばれました。
8年()から承平4年()にかけての時期、貫之はにとして赴任していた。
の『土佐日記見聞抄』は年代がなく成立年は不明であるが、4年()の跋があるの『土佐日記附注』、の『土佐日記抄』などと同時期のものであるらしい。
「そうやって私のことを咎めるけれど、あなたの気持ちはどうでしょうね、本当に私を覚えていたのでしょうか。