わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。
では、この キリスト教で大きな立場を占めるローマ教皇とはどんな立場の方なのか、幾つかの角度から、 簡単に分かりやすくご紹介しますね。
第4回十字軍遠征(1202年〜1204年) この頃になると、聖地奪還という当初の目的は逸脱し、彼らの目的はイスラムとの領地争いに発展していきます。
どちらかというと、 「キリスト教(カトリック)の権威を保つために、その総本山を独立国家として扱っている」 というようなイメージですね。
教皇の主導下に開かれたトリエント公会議(トレント公会議、1545~1563)による態勢の立て直し、また、とくに教皇に忠誠を誓うイエズス会の活躍などにより、カトリック側は失地回復に努めたが、ヨーロッパ・キリスト教世界を教皇のもとに再統合することはできなかった。
たとえば,アメリカ北部の大統領が核をここに落としていいかと聞き,「ダメ」といわれたらすぐに引き下がるぐらいに。
すなわち、ここから先のキリスト教は、ローマ・カトリックとカトリック東方教会に2分されます。
200年という長い歳月のなかでくり広げられた、十字軍という2つの宗教の激しい交わり。
ローマ教皇とはカトリック教会における最高位聖職者であり独立国家バチカン市国の元首• 十字軍遠征の目的 11世紀、トルコ系のイスラム王朝セルジューク朝が勢力を増しアナトリア半島(現在のトルコ一部)を占領するなど、東ローマ帝国を脅かしていました。
枢機卿は教皇が選任する。
このように、ローマ教皇に宗教的な権威が与えられてきたのは、イエスキリストや使徒たちが活動されていた1世紀ではなく、その後の 3世紀頃からと言われているんですね。
これでは、バチカンによる性的児童虐待を暗に容認していると見られても仕方ないだろう。
ニュースと、番組・特集で使い分けているのでしょうか。
ベネティクト16世もその保守的姿勢は変わっていない。
日本の場合は仏教の王や仏の敬称として用いられる場合がある。
次の教皇は強気で知られたで、彼は1303年のでフランス王から屈辱を受け、憤死した。
蛇足ですが、バチカンの各ゲートに配置されているミケランジェロデザインの衣装を着た兵隊さんはすべてスイス人です。
しかし教皇領はいまだ独立した国として、半島の真ん中に存在していました。
ぜひ読み進めてください。
ローマ教皇庁が文書の上に現れるのも1098年が最初である。
たとえば、昨年9月にはHIVに感染したメキシコの司祭が30人の児童をレイプしていたにもかかわらず、現地の司教区から赦免されていた。
ウィルスなど有害ソフトウェアへのリンクを含むもの• 何となくキリスト教の偉い人で世界的に権威のある方なんだろうという想像はつくかもしれません。
またフランスは旧教国であったが、伝統的にローマ教皇とは分離した国王の権威を重視するが定着していった。
またこの頃には「少年十字軍」という悲劇的な運動も巻き起こります。