九月の半ば、海は晴れて大きなマストの破片が波間にただよっているのを見かけたり、アザラシや大カモメなどのような海鳥を見かけた。
マゼラン コロンブスと似た功績を上げている人物には、マゼランが存在しています。
しかし、まだアゾーレス諸島の近くの、大洋の真っただ中だったのである。
最初、温和で組みしやすいと考えた原住民も力で支配せねばならず、原住民は原住民で人海戦術でスペイン人に対抗しようとした。
しかし、先住民族を大虐殺したことから最近では悪名高い侵略者として非難の的にもなっています。
コロンブスの軍勢によるインディアンの犠牲者は、少なく見積もっても数千人以上に上り、彼によって持ち込まれた疫病もあって、合計の犠牲者は優に5万人を超したようです。
全員がくじをひいて、スペインに着くことができた場合の、聖母の寺へお礼まいりをする者を決めることにした。
しかしその一方で、上記のコロンブスの生還エピソードは、コロンブスがフランスの私掠船(国家公認の海賊船)に乗っていた時のエピソードであるとの説も存在しています。
これを機に、海運国ポルトガルの、海の男たちの黄金時代の幕があがった。
* 見果てぬ夢 * 映画「1492」のラストシーンが私には忘れられない。
つまり、1492年の以前からヨーロッパの航海士や羅針盤製作者には偏角の存在が知られていたと解するのが自然である。
組合長ぐらいにはならなければだめだ。
おどろいたことに、スペイン人の一人が剣をぬいてみせたところ、土民はその刃をにぎったので、手を切ってしまった。
彼は航海の際にも、意識的に距離を少なめにして、乗組員に嘘の航行距離を申告しているが、それは未知の海域に入り込んだことで乗組員がパニックになるのを防ごうとしていたからである。
- コロンブスの名に由来して命名された国• フランシスコ・ピサロ(1471~1541) わずか180名の兵士と37頭の馬だけでインカ帝国を征服した。
このころ、コロンブスは妻フェリパを亡くし、1485年半ばごろ、8年間過ごしたポルトガルに別れを告げる決心をつけた。
現存する第1回航海の記録である、息子エルナンデスの『コロンブス提督伝』との『コロンブス航海誌』双方の1492年9月13日の項に、「夜は北西を指していた羅針が、朝には北東を指していた」という記述がある。
コロンブスの船団は希望に燃えてひたすら西を目指した。
天然痘やチフスなどの伝染病が白人たちによってもたらされ、耐性と知識のない先住民はばたばたと倒れていったのです。
39名のスペイン人は全員、原住民によって虐殺されたというのである。
船はいまにも沈没するばかりだ。
幾百年かのちに北アメリカの南部をうめつくした綿畑のにぎわいを考えれば、それがわかる。
一行はひとまず南をさして進む。
なお、アメリカの首都をワシントンD.C.Washingon District of Columbia というのもコロンブスの名に由来する。