最終の第11回戦でも田中は負け、郷田は勝った。
藤井二冠は全勝、佐々木(勇)七段は藤井二冠に負けた以外は全勝と、強豪揃いのB級2組でも力が抜けていると思わせる見事な成績だった。
この期のB級1組はのフリークラス転出、の死去の影響で12人総当りで行われた。
午前8時ごろに清掃員にとめられるまで感想戦をしていたという。
フリークラスに編入された棋士が、これらの規定により順位戦出場権を獲得した例は過去に9例ある。
(C級2組以外)下位クラスからの昇級者• ちなみに第76期名人位挑戦も同じ6勝4敗であり、勝率6割での挑戦もA級順位戦史上最低タイ記録(以来)である。
2019年4月27日閲覧。
升田は「錯覚いけない、よく見るよろし」の言葉を残す。
昼食休憩を挟んでいるので事実上はもっと長い。
さらに、3月15日のC級2組最終戦でも藤井はとの対局で勝ち、中学生初の順位戦全勝を達成した。
休場 [ ] 病気などのやむを得ない理由により、年度初めの組み合わせ抽選前に1年間の休場届を出した場合、その年度の対局予定は設定されない(全休)。
C級1組からの降級者がいる場合は順位1位から順に編入されます。
藤井はこの梶浦との対局に勝って昇級を確定させ、同日付けをもって五段に昇段となった。
24時間対局(第63期) のB級1組、対では、指し直しと指し直しが発生したために、翌朝9時過ぎまでかかった。
またA級在位2期目のに8戦全勝で加藤と同じく挑戦者最短記録(6期)を達成する。
残留争いは3名による最終決戦へ 残留争いは、最終戦が抜け番の丸山忠久九段(50)の降級が決まって残りの枠は2つ。
これが「高野山の決戦」である。
結果、がと同星(3勝6敗)ながら頭ハネで陥落、そのままフリークラス宣言をし順位戦を引退した。
降級点 [ ] B級2組以下のクラスでは、成績が悪くても1期で降級することはなく、成績下位の一定人数に「降級点」がつけられる。
定員はありません。
その他のフリークラス棋士• 1951年(昭和26年) - B級を1組と2組に分割する。